「忠臣蔵」に学ぶマーケティング①

マーケティング

もう忠臣蔵が放映される年の瀬が
迫ってきております。
皆さまいかがおすごしでしょうか。

最近時代を問わず歴史モノを見たり
聴いたりしているこの頃、色んな
面白い話を仕入れているのですが、
その中で、

「話は知っているがそんなに詳しくない」

歴史、「忠臣蔵」からマーケティング技術を
読み解いていきたいと思います。

「忠臣蔵(赤穂事件)」のあらすじ
元禄14年(1701年)江戸城松之大廊下で
高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に
斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭
(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。

さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、
家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の
吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った。
ウィキペディア参照

なかなか痛快な話です。

でも少し冷静に見てみると、刀なんか
抜いてはいけない皇居や国会議事堂で
ケンカをしかけた挙句、それが元で
処罰され、それを逆恨みした部下たちが
仕返しをしたという極悪な話とも
取れなくはありません。

ではなぜ後世には「美談」として
受け継がれているのでしょうか。

大体こういう話はマーケティングが
絡んでいるという風に考えてしまう
私は病気でしょうか?

マーケティングにこじつけた話をする前に、
この赤穂事件に関する冷静な考察を
しておきたいと思います。

そもそも300年以上前の話で、その後
権力者が色々と変わってしまっているため、
このような歴史は後の権力者の都合の
良いように書き換えられる可能性が高い
ということは押さえておきたいと思います。

ただ「忠臣蔵」が歌舞伎などで上映された
のは1748年で、まだ同じ江戸幕府時代
であり、人気を博したとのことなので、
話の筋はそこまで変えられてはいないので
はないかと思います。

またこの頃だと関係する書類も多数残って
いるため、全く違う話に仕立て上げられて
いる可能性も少ないのではないでしょうか。

浅野が吉良を斬りつけた理由

浅野内匠頭が刃傷沙汰に至った理由は不明と
されている文献も多いですが、私は吉良が
浅野をいじめるたとする通説が正しいと思います。

実際に関連する文献に、吉良上野介が他の
大名もいじめたりしていたことが多く出て
くるようです。

吉良は実は良いヤツだった的な論評も
ありますが、中身をみるとどれも大した
ことはなさそうです。

それに、浅野は吉良の額と背中に斬りつけた
そうですが、実際に吉良の命は奪っていない
ように、何かを言われるかされるかをして
しまい、突発的に手を出してしまった、
というのが真相ではないでしょうか。

赤穂事件後の不公平な裁定から仇討ちにいたるまで

浅野内匠頭は即日切腹、
吉良はおとがめなし。
浅野家はお家取り潰し。

この裁定は生類憐みの令で有名な5代将軍綱吉が
行いました。
当時、喧嘩両成敗であるはずなのに、
一方だけ処罰するということはおかしい、
という風潮が江戸の民衆にもあったそうです。

吉良が将軍の近い親戚筋にあたることも、
そのような憶測を助長することになったようです。

赤穂事件後、浅野内匠頭の実弟、浅野大学を中心に
お家再興の道も完全には閉じていなかったため、
しばらく様子をみて耐えましたが、その道も
絶たれてしまったため、仇討ちが実行される
ことになりました。(いささか端折りました)

長すぎるので明日に続きます。
(今日の内容「前置き」だけです笑)

「忠臣蔵」に学ぶマーケティング②―完結編につづく

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